ym McFarland Yoshiko の背景



1941・12・07
三橋佳子として大阪市に生れる。最初の大きな記憶は大阪空襲と焼け跡の瓦礫。戦死した父について
は写真 と話でのみ知る。誕生日は日本では真珠湾攻撃の前日、しかしUS の暦では「当日」
最も卑劣
な日として一般に知られている、と後の渡米時に知りショックを受ける。そのショックが、大戦争に火を つ
けるのとは逆の働きへの使命感を駆り立て、「地球語」発想への導火線となった。
1945〜65
奈良県に住む。64年京都市立美大(現芸大) 工芸科卒。
1966〜86
藤田佳子となって島根県に住む。米子の染色家、藤原一善師を見習い、植物染料によるろうけつ染めを
開始。壁掛け、襖絵、壁画、のれんなどの注
文制作をする一方、日本文化のルーツにつながる出雲古代
の世界を探って、神話、遺跡、伝統行事、海山の暮らしの伝えを訪ね歩く。火きり神事や大しめ縄作りに
参加した体験から、縄文時代の原出雲人が世代 から世代へ行事を通して延々と現代まで届くメッセージ
を託したのを感じる。
それは、「結び」こそ
が創造や世界維持の原点であると伝えていた。未来を問うため、縄文と稲作文化の
狭間の時代の世界を描いて中国地方で個展多数、NHK教育テレビ番組その他などで全国にも紹介される。
  ( 当時の作品の写真
1985
カリフォルニアに招かれてキリスト教以前のヨーロッパやアメリカ原住民の世界について聞き、古代に戻
  れば地域の文化差が少ないことに驚きを持って気付く。
1987
『空の彼方から カモス』(カモスとは、出雲系の原母神カミムスビノミコトの出雲地方での呼び名)を自費
出版。渡米、サンフランシスコで McFarland Yoshiko となる。
1988〜
カルチュア・ショックと古代から伝えられた使命の中で「地球語」を電撃的に発想。以来言語史や脳の
仕組みなどを独学し、家族や友人の励ましに支えられながら専ら「地球語」の具体化に向けて研究生活。
傍ら、 多人種の住むアパートの管理人をしながら文化差を肌で学び、その体験が「地球語」の案のヒントにも。
しかし、考え方の基本を支えたのは、出雲で学んだ「結び」や原点に立ち戻って全体を見渡す古代人の精神。
また、20年間染み付いた色重ねの染色技法も、「重ね文字」の発想に展開した。
1992
北米毎日新聞社の雑誌アドアで「地球語」の概要を掲載していただく。その時はまだコンピュータ未体
ため 仕組みの合理化が十分でなかったことに気付き、振り出しに戻して組み立て直す。最初の発
表の案は使い 物にならなかったが、考え方として期待してくださる在米日本人の声を聞くことができ、励
みになった。 建築家の友人Jim Huttonの協力で重ねやすい記号の案をコンピュータで描き出してもらう。
1994
自分のコンピュータを持つ。立て直した案による記号入力のプログラムを、夏休みに滞在中の京都工芸
繊維大学学生だった TOMO (藤田知丈)が作成してくれ、仕組みの記述にかかれるようになる。しかし
その後も記号や文法をたびたび改造し続けたため、試用の仲間作りは進まなかった。
1996
インターネットを初体験。インターネットと「地球語」は互いに育て合える手段であるのを感じ、夏以降、
  字典準備と平行してhtml編集を学び、資金がないので複数の軒先を拝借しながらサイトの準備に掛かる。
(1996年10月記。 写真は、2004年8月)

この後の「地球語」関連の経過については ここをご覧ください。

「地球語」ホームページへ   Yoshiko's Batik Works